民藝を「集める」から「つくる」へ──医師・吉田璋也がデザインした暮らし
鳥取の耳鼻咽喉科医・吉田璋也は、柳宗悦の思想を受け継ぎ、職人とともに新しい民藝をデザインした。生産から販売までを組み立てた「民藝のプロデューサー」の仕事を、東京で開催中の回顧展からたどる。

民藝を「集める」から「つくる」へ──医師・吉田璋也がデザインした暮らし
鳥取の耳鼻咽喉科医・吉田璋也は、柳宗悦の思想を受け継ぎ、職人とともに新しい民藝をデザインした。生産から販売までを組み立てた「民藝のプロデューサー」の仕事を、東京で開催中の回顧展からたどる。

緑と黒、二色の釉薬(ゆうやく)を一枚の皿の上で大胆に塗り分ける。鳥取の牛ノ戸焼(うしのとやき)で1931年に生まれた小皿は、古い器の写しではない。地元の窯の技術を生かしながら、新しく考えられた「デザイン」である。考えたのは陶工ではなく、町の医師だった。
吉田璋也(1898–1972)。鳥取に生まれ、耳鼻咽喉科医として働きながら、柳宗悦が唱えた民藝運動を地方で実践した人物である。自らを「民藝の心をもつ医師」と称した。
無名の職人による日用品に美を見いだす民藝は、ふつう「見る」思想として語られる。だが吉田は、見いだした美を現在の暮らしに合う形で「つくる」ことを選んだ。東京・汐留のパナソニック汐留美術館で開催中の『吉田璋也のデザイン ― 新作民藝運動がめざした未来』は、約300点の作品と資料でその試みをたどる。

白樺から民藝へ
吉田が柳と出会ったのは、新潟医学専門学校に在学していた頃である。文芸誌『白樺』を愛読する仲間との交流がきっかけだった。柳は吉田にとって生涯の師となり、のちに河井寬次郎は吉田を「民藝の母」と呼んでいる。
1931年、吉田は鳥取で医院を開業する。同じ年、牛ノ戸焼の「五郎八茶碗」に出会い、窯主の小林秀晴を説得して新しい器づくりを始めた。古い器を集めて評価するだけでなく、職人と一緒に形と用途を考え、売れるものとして世に出す。これが吉田の「新作民藝」である。
医師が器のデザインに関わること自体は珍しく見えるかもしれない。だが吉田にとって、それは診療と同じく、人の暮らしを良くするための実践だった。形を決めるのは使い手の生活であり、作り手が食べていけることもまた条件になる。美しさと使いやすさ、そして商いとしての持続。三つを同時に満たすことが、吉田のデザインの前提だった。
デザインし、つくり、売る
吉田の仕事が独特なのは、デザインだけで終わらなかった点にある。
たくみ工芸店
1932年、鳥取に民藝の専門店「たくみ工芸店」を開いた。店名は柳の命名で、現存する日本最古の民藝専門店とされる。翌年には東京にも店を構え、地方の職人の仕事が都市の生活者に届く流通をつくった。
器から家具、電灯まで
展示を見ると、扱った領域の広さに驚く。陶磁器だけでなく、木工、染織、金工、照明、家具まで。木工職人と組んだパン切り台、鍛冶職人による果物ナイフ、虎尾政次と組んだ「丸傘電気スタンド」。和洋が混ざり始めた昭和の住まいに合わせて、民藝の素材と技法を当てはめ直している。
中国で見たもうひとつの民藝
1938年、吉田は軍医として中国北部へ派遣される。除隊後も北京に拠点を置き、1945年まで現地で新作民藝の活動を続けた。展示の第3章は、この時期を理想と現実が交錯する時代として扱う。曲木の《中国風曲木肘掛椅子》には、異なる土地の技術を自分のデザインに取り込もうとした跡が残る。

美術館、店、そして町へ
戦後、鳥取に戻った吉田は、1949年に鳥取民藝美術館を開く。古今東西の民藝と、自らが指導した新作民藝をあわせて約5,000点を収める。柳が説いた「美の標準」を、地方の町で誰もが見られるようにする場だった。
美術館、工芸店、さらに民藝の器で料理を出す「たくみ割烹店」。展示ではこの三つを、民藝を生活に届ける一つの仕組みとして見せる。会場には旧吉田医院と旧自邸の一部も原寸で再現され、吉田が暮らしの中で道具をどう使ったかがわかる。

活動は工芸の外にも広がった。最終章では、鳥取砂丘、鳥取城跡、仁風閣(じんぷうかく)といった土地の自然と文化財を守る活動が紹介される。美しい道具と美しい町は、吉田にとって地続きのものだった。
いま吉田璋也を見る理由
作り手、デザイナー、売り手、そして土地の暮らし。吉田が結んだのは、今日のブランドづくりが目指すものそのものである。産地の技術を残すには、使われ続ける新しい形が要る。90年前の鳥取で、医師はそのことに気づいていた。
用から生まれる美を、待つのではなくつくる。




